塔の上のラプンツェル 感想

見てきたよー。
まずはネタバレ少なめに。
いやぁ、なかなかの佳作だ。
色々と足りない点はあったのだけれど、ちゃんとプリンセスが成長して、ヒーローに感情移入が出来て、しかも原作改編が大きい作品としては珍しく、原作との対比が感じられた。(プリンセスものでヒーローにも感情移入出来るのは、大人向けの傾向が強い実写ものには元々あった兆候だが、子供向けの色が強いアニメーション作品では珍しい。というかアラジンくらいじゃないか? でもあれはアラジンが主人公だったし、ジャスミンは初めから芯が強くて成長の余地はなかった。美女と野獣はあえて感情移入しにくくしているのだろうけど)。
そう、正直原作を知っているディズニーの原作改変系アニメ作品は、あまり好きではないものが多かったのだ。が、ラプンツェルは良かったと思う。
「原作を知ってから見た方が面白い」作品だと初めて感じた。
原作を知ってから見ても、全然悪くはないと思った原作改変系のリトル・マーメイドやノートルダムの鐘でも、「原作を知っていた方が良い」と感じまではしなかったのにだ。

正直ディズニーの原作改変系アニメ作品は、原作好きには微妙なことが多い。
設定の一部だけつまみ食いして、本編は原作とはまったく関係ない感じで、オリジナルで進む。
特に酷いのは、主人公は何が何でも「善人の正当な両親から生まれた、正当な人間」にされてしまう。これのせいで『ヘラクレス』などは、原作設定つまみ食いどころか、一から十までヘラクレスである必然性ゼロな、「いやこれ、もう別の英雄でやれよ」な話になってしまっていた。(オリジナルとして見れば面白いのに、あまりにもヘラクレスの必然性がなさ過ぎて、どうしてもひっかかってしまった)。おとぎ話って親がダメ人間だったせいで、子供が苦労するってケースが多いんだけど、この部分を何が何でも変更して、悪人は無理矢理義父母ということにして、善人の両親に置き換えちゃうんだよなぁ。駄目な実親で許される範囲は、ベルの親父までのようだ。
正直この点においてはラプンツェルも同じなところがあって、原作ではぶっちゃけ他人の作物盗んで食った挙げ句、我が子を言われるままに手放したラプンツェルの両親が諸悪の根源だろ、って感じなのだが、ディズニー版では魔女に悪役をおっかぶせてしまっている。
(まぁ冷静に考えれば、ディズニー版の両親がやったことも、権力に任せて貧しい老婆から太陽の花の力を強奪・独占したわけで、普通に魔女より酷いっちゃ酷いが)

とは言え、この話において実の両親はさほど重要ではなく、序盤のラプンツェルに目的を与えるための存在に過ぎない。この話のメインは、あくまでラプンツェルとフリンの物語だし、本当の意味で親の宿命を背負っているのは、むしろ魔女の方だからだ。
だから、ディズニーの改編も今回はさほど気にならない。

そう、魔女は設定的には継母だが、魔女とラプンツェルの間に起こっていることは、そのまんま「母殺しの困難さ」を示すエピソードだ。
よく言われているように、「母なる者からの自立」は「父なる者からの自立」よりも遙かに難しい。
父なる者が自立を妨げるのは、父なる者の「正義」の押しつけであり、これから逃れて自立する「父殺し」とは新しい正義が古い正義を打ち倒す戦いだからだ。これは比較的容易い。(ラプンツェルと似たような境遇で言うなら、ノートルダムの鐘でやったパターン。フロローは正義を主張し、息子と対立し、結果的に子の正義が勝って死ぬ)
しかし母なる者が自立を妨げるのは、愛しているからだ。これは戦うのが難しい。この世で唯一絶対の母なる愛を断ち切るのだ。こんなに恐ろしい取り組みはないし、愛を裏切るという意味では自分が悪者になってしまう。
流石にディズニーでこの問題にガチで取り組むわけにはいかなかったようで、設定的には『あくまで魔女は私欲のために愛しているふりをしているだけで、本当は愛していない』という逃げ道を用意してある。だが描写的には『本当に娘を愛するが故に自立を妨げる母親』でも、成立するように描かれている場面が多い。
実際、あんな状況になったら、そりゃお母さん度肝抜かすよ!! 娘をお家へ力づくでも連れ帰ろうとしますよ!!
結末ではさすがに逃げをうったものの、この議題に真っ向から取り組んだけでも大したものだと思うし、他のブログでも指摘されていたが、そもそもこの議題にガチで取り組んだラプンツェルの物語は、すでにレイ・ブラッドベリの「びっくり箱」があるから、ガチの結末が見たければ、そっちを見ればいいかもしれない。

そしてやっぱりこの物語の白眉は、最後に原作との対比へと回帰していく部分だろう。
『誰がラプンツェルの髪を切ったか?』
この違いが、原作との大きな結果の差を生み出すわけだ。


以降、ネタバレ感想。


この映画の序盤を見て疑問に思うのは
「え? あのラプンツェルの髪を男が昇るシーンやらないの?」だと思う。
まぁ「妊娠して男(原作では王子)が通ってるのがバレる」という原作の展開は、ディズニーアニメ的にまず絶対やらない(やれないだろコレ……)だろうことは想像できていたが、髪を昇るシーンはやらない理由がない。
そもそも「ラプンツェルってどんな話?」と聞かれて、真っ先に思い浮かぶのが、「男が魔女の真似をして、ラプンツェルの髪を下ろさせ、塔に昇る」というシーンだろう。コレしか知らないって人もいると思う。ここは普通、絶対に外せないメイン場面とも言うべきシーンだ。
おとぎ話の名シーンを美しい映像美に変えるディズニー作品が、原作の名シーンをやらないのは、概ねオリジナルの展開や設定に都合が悪い部分がある場合だが、あのシーンは別に原作通りにやっても、流れとしては何も問題なかった。
にも関わらず、あえて原作のメインシーンをやらずに、フリンに自力で塔に侵入させた。
これを見た観客は、「あぁ、この辺りから原作とは全然違う展開に進むってことかな?」と思うし、実際そうなる。
しかし、さんざん原作とは異なった展開で突き進んだ後、最後の最後で物語は原作の展開へ回帰する。
クライマックスでとうとう、あの「男がラプンツェルの髪を昇る」シーンをやるのだ。
この時点では魔女とラプンツェルが破局した後、すなわち原作でおそらく最もインパクトのあるあのシーンが来るはずだと、観ている側は予測できる。
原作通りなら男は髪を昇るが、そこにラプンツェルはおらず、ただ切り落とされた彼女の髪の毛があるだけ。そして魔女が男を絶望に追い込むことで塔から落とし、男は盲目になってしまう。
いるはずの人間が、いない。
ただその人の部品だった髪の毛だけがある。
これはかなりインパクトと恐怖感を煽るシーンだ。流石に盲目展開は今からやっていると物語の終わりに間に合わないからやれないだろう。しかし魔女の恐ろしさを見せるためにも、ここでは原作通り切られた髪だけがあり、ラプンツェルがいないというシーンはやるのが、当然の展開のはずだろう。
ところが、実際にフリンが塔に登り切ると、ラプンツェルはいるのだ。
魔女に囚われてはいるが、髪の毛は切られていない。ラプンツェルの髪を維持した状態で、魔女はフリンに塔を昇らせる。
それはそうだ。この映画では、ラプンツェルの髪を切っては、魔女の望みは失われてしまうからだ。
そして紆余曲折を経て、なんと男がラプンツェルの髪を切り落とし、絶望した魔女が塔から落ちるのだ。
この逆転ぶりは、実に鮮やかだ。
原作では魔女はラプンツェルの髪を切り、塔から追放した。結果的にラプンツェルは自立を魔女から強要されたとも言える。
原作では、男はラプンツェルの髪にしがみつき、彼女の元に通い詰めただけだった。
しかしさんざん原作と違う道を進んだ結果、魔女はラプンツェルに固執して、彼女を自立させることが出来ないままだ。逆にかつて自らだけで生きていたフリンは、ラプンツェルの意志を断ち切ってでも、彼女の自由を護りたいと願い、自分とラプンツェルを繋ぐ命の架け橋である髪を切り落とせるよう成長している。
古来から髪はへその緒のメタファーであり、縁と執着の象徴だが、その髪にしがみつく者と、切り落とす者が、原作とは逆転していた。
だから塔から落ちる者も逆転したのだ。

多分、今までのディズニーの原作改編系に足りなかったのが、この対比なのだと思う。
リトル・マーメイドは確かにみんなが見たかった、ハッピーエンドの人魚姫を見せてくれた。とても素敵だった。
でも、「何故、原作と違う結末になれたのか」というのは描かれていない。強いて言うなら悪役が勝手にぺらぺら喋ったせいで自爆した、といったところだ。
ノートルダムも子供向けとしては凄いテーマに挑んだし、結末も少し苦いハッピーエンドという形にしており、これはこれでほろ甘くも切ない仕上がりになっている。
でも父と子の情の決裂と、それでもやはりどこかに残っている情の名残の二律背反を感じさせる、フロローの墜落(カジモドの突き落とし)が、ただの神の裁きの墜落になってしまった理由がイマイチ感じられない。原作との分岐を作ったのは、エスメラルダとフィーバスが原作より人格者寄りで(特にフィーバス)、逆にフロローが原作より悪人寄りだったからで、そういう意味ではラプンツェルも同じなのだが、なんというか、分かりやすい対比みたいのがなかった。
単独としてもの凄く面白いお話にはなったのだけれど、対比が感じられなかったのだ。

「何が原作と違ったために、違う結末になったのか?」
これがラプンツェルでは分かりやすい。何せ魔女が塔から落ちるという形で滅びる。わざわざ原作の男が辿ったのと同じ顛末で、魔女が滅びる。
また、フリンとゴーテルも似通った部分があるようにしてある。
二人とも自分本位で、息をするように魅惑的な嘘をつく力で生きのびており、孤独だ。また二人ともいつかラプンツェルを本当の親に返さなければならない仮の親、みたいなところがある。
ぶっちゃけフリンとラプンツェルの関係って、ある日道ばたでがきんちょを拾って嫌々面倒見させられているうちに情が沸いて、本当の両親の元へ返すとき切なくなる、みたいなロードムービーの典型パターンを思わせるところがある。もちろんそれが恋愛に発展するボーイミーツガールにはしてあるのだけれど、ラストの両親の元へラプンツェルを返すフリンの目線は、身分違いの恋に身を焼く男と言うよりは、仮の家族との別れを惜しむそれだ。
そして前述したとおりの、原作とは対称的な髪切りイベント。
これらが原作との鮮やかな対比を生み出しているのだろう。
フリンは両親の元へラプンツェルを返せた。ゴーテルは返せなかった。フリンはラプンツェルの髪を切れた。ゴーテルは切れなかった。だから塔から落ちる者と、落とす者が入れ替わった。
これはそういう話なのだろう。

もちろん最初に書いたように、この映画には不満な点もたくさんある。
例えば、そのクライマックスシーンのためには、ラプンツェルの自由を象徴するアイテムを用意して、それと引き替えにフリンの傷を癒そうとする、みたいな展開にするか、あるいは序盤にラプンツェルが主張していた「私は絶対に約束は破らない」という性格を、強調するイベントを用意しておくべきだっただろう。これがないせいでクライマックスの「フリンの命か、ラプンツェルの自由か」の二者択一性が弱くなってしまっている。
また、アヒル亭のみんなが助けに来るためにも、もう一イベント挟まないと動機が足りない気がする。マキシマスとアヒル亭のみんなが仲良くなるイベントあたりがあれば良かったのだけれど。ってかもうあんだけキャラ立ちまくってるマキシマスなら、メイン陣ぬきでシーン一つ持っても、普通にいけたと思うし。
まぁ、それらは「やりたかったけど、尺がなかったんだろうな」でギリギリ納得しないでもない部分だ。
また、上で指摘したように、魔女とラプンツェルの関係の結末も、かなり逃げをうってしまっている。が、これもガチでやろうとすると、ディズニーとしてはかなり重く、尺も半端なく必要になってしまうから、軽く流してしまったのだろう。(ガチでやってハッピーエンドにしようと思ったら、ゴーテルが改心する展開になりそうだが、それやっちゃうと実の両親との関係がややこしくなるからなぁ。正直ここの関係は、かなり練り込み直さないと、綺麗にまとまる展開にはしづらそうだ)

だから、重要かつ簡単に入れられるシーンを、一つだけ入れて欲しかった。
フリンの過去回想だ。
台詞なしのほんの一、二カットでいい。
位置は街で二人楽しく遊び回っている最中、湖へ行く少し前に。
なぜなら湖のシーンが、主人公が入れ替わるターニングポイントだからだ。
前半はラプンツェルの成長物語。
既知の愛にくるまれた塔の中で引きこもって安全に生き続けるか、未知のロマンを追いかけて、危険だが魅力的な外の世界へ冒険に出るか。その葛藤を繰り返しながらもがむしゃらに突き進み、ついには生まれ持ったわけではない、未知だった他者からの愛を信じ抜けるようになる。この冒険は、彼女の夢が一区切りつく湖のシーンで一応の完成をみる。取引抜きで一緒にいられると信じられる。だからティアラを渡して、一人で待っていられる。
後半はフリンの成長物語。
一見オープンに見えて、その実ずっと本音をはぐらかして対人関係から逃げ続けていたフリンが、本音をさらけ出し、他者との関係を恐る恐るながらも受け入れられるようになり、ついには自らの内で完結させていた願いを、他者に手放して託すことが出来るようになる。孤独だったフリン・ライダーを卒業し、ユージーン・フィッツハーバードとして生まれなおす再生の物語だ。
湖のシーンは、ラプンツェルが初めて自力で夢を叶え、夢が叶ってしまった後の寂しさと、新しい夢への期待感を手に入れた、ある種の大人になった瞬間である。同時にフリンが初めて自主的に歌を歌い(確認してないけど、あひる亭で強制的に歌わされたシーン以外、ここに至るまではフリンは歌わなかったと思う)、初めて観客に本音の心を明かした場面。
この先ラプンツェルの行動はやや控えめであまり暴れ回ったりしなくなり(魔女との関係もわりとあっさりと決裂へ向かい)、代わりにそれまで流されっぱなしだったフリンが、全速力で前へ進み始める。
だから湖のシーンで一気にフリンに感情移入の対象を移せれば、その後の展開でも、かなりワクワク出来たのだけれど、後一歩足りなかったなと思うのだ。
これが、あの街の場面で一瞬だけでも過去回想が入れば、湖でフリンが歌った辺りから、一気に感情移入が進んだと思う。
過去は回想してしまった時点で、「思い出」になってしまう。もう今現在ではない、通り過ぎた昨日になる。昨日までを思い出の中にパッケージしてしまい込み、卒業しようとすれば、卒業の儀式として、ティアラをスタビントン兄弟へ返しに行く展開も感慨深くなる。ティアラの放棄は悪事から足を洗うために必要だ。それと同時に過去は過去でお世話になった。孤独だが楽しい日々でもあった。そこから卒業するためにも、ティアラをかつての仲間へ返せば、過去に感謝とお礼が出来るし、それで気持ちの区切りもつく。そういう感じが出てくると思うし、それが裏切られてからの展開もドキドキ度が増す。
「生い立ち不明の気障な男」が「独りぼっちでヒーローに憧れた少年」に戻り、今度こそ本当に孤独ではない人間になるためやり直す。そういうスタートラインにすることが出来たと思う。

まぁ色々書いたけど、とにかく魅力的な材料をばらまきまくってくれた、面白い作品だったと思う。
ネタの回収には一部難があったものの、ネタそのものは素敵だったと思う。
ってか、このカップル本当に可愛いなぁもう。カップリング表記するとラプフリだよなw 臆病に見えて結構強引ぐマイウェイなお日さまラプンツェルに絡みつかれた(Tangled)おかげで、強引に見えて対人関係臆病なフリンが心開く話なわけで。要するに逃げ上手が唯一逃げそこなったのが、爆発的な熱意を持つラプンツェルというお話w
いや実際、クライマックスの髪切りは、フリン・ライダー最期の大脱走であると同時に、逃げそこないだったと思うんだよな。
結局フリンはラプンツェルと二人でドロドロになりながらも一緒に生きる道からは逃げた。傷を治させて、魔女の虜になったラプンツェルを泥まみれで取り返す道は選ばなかった。まったく最期まで卑怯で優しかったフリン・ライダー。ラプンツェル一人を空に羽ばたかせ、自分はいなくなろうとした。と、同時にそんな選択選ぶ時点で、心はラプンツェルに囚われてもう逃げるのを止めたからこその決断でもあった。ヒーローに憧れた少年は、たった一人を愛することでついに本当にヒーローへなりきり、黄泉の世界へ脱走して、その物語を完結させた。
まぁ、まばゆい太陽の化身であるラプンツェルは、結局フリンを黄泉の国には逃がさなかったけどね。だからこそのラプンツェルだ。どんなにヒーローになったって、前を向こうとすることを止めないラプンツェルからは逃げられやしないのだ。
いや、黄泉の世界へ逃げおおせたフリン・ライダーの代わりに生まれ落ちたのが、等身大のユージーン・フィッツハーバードってユージーンは言いたいかも知れない。プロローグでの彼の語りを考えると。

全体の完成度としては美女と野獣の方が高かったと思うけど(まぁ、あれは細部の改変はあれど、わりと原作に忠実な展開だしな)、死にネタ的とか萌え的にはラプンツェルのが好きです。はい。

コメント

匿名 さんのコメント…
詳細な考察を読ませていただきました。
私は原作を全く知らなかったので、(グリムの髪が異常に長い女子の恋愛話としか)おかげでさらに理解が深まりました。
彼と彼女の成長話・主人公が入れ替わる・原作との対比等々、ふまえて、また再び鑑賞したいと思います。
ありがとうございました。
はるもどき さんの投稿…
ふおお、遅ればせながらコメントありがとうございます。
あくまで一つの見方としての感想ですが、理解の手助けになったのなら幸いです。
匿名 さんのコメント…
良い文章ですね。
筆者さんが真剣に映画を観賞したんだなという感じが伝わりました。
1児ママ(24) さんのコメント…
とてもいい文章でした!!
ディズニープリンセスが大好きで、ラプンツェルは今毎日見てるのでこの記事を読むことができて本当によかったです。
最後のところとか本当に納得!俺がどうやって死んだかを描いた物語。だからフリンはこう言ったんですね。うん納得!不満な点で書かれてるところも確かに!と思い納得!
見れば見るほど好きになる作品ですよね❤それと、筆者様はとても頭のいい方なんだなーと思いました!
匿名 さんのコメント…
私も原作を既知の状態で作品を観た一人です(今更ですが)。作品のあまりに原作と異なる展開に、「個人的には面白かったけど、これ、他の原作知ってる人どう思うんだろ」と気になって検索したところ、こちらの記事を見つけました。
うん、凄く解りやすい!!自分の気付かなかった考察から、改善のポイントまで、今後映画を観る視点の参考になりました!!有り難うございます。
フリンがディズニー作品にしては珍しい等身大の感情移入しやすいヒーローだったのに、なんかモヤモヤしてたのですが、そうですね、回送のシーン、欲しかったですね(*´・ω・)
匿名 さんのコメント…
ベルの父親は変人なだけでダメ人間ではないと思いますよ。少しうだつが上がらないかもしれませんが。しかし、原作では娼婦みたいなラプンツェルも、ディズニーの手にかかれば天真爛漫の子供っぽいキャラクターに変われるんですね。ラプンツェルの髪をロープ代わりにするという原作の特徴をふまえ、それを彼女の大冒険に生かすところも面白かったです。フリンとゴーテルの行動の対比も凄かったです。ちなみに魔法の花ですが、あれは元々ゴーテルが偶然見つけて独り占めしていたものなので彼女に直接的な所有権はなく、ラプンツェルの両親が(国家権力で)摘んでしまっても特に問題はないのでは?ゴーテルも取られたくなかったのなら別の場所に移植させれば良かったのでは……。

このブログの人気の投稿

BASARA の属性に関して思うこと

シュタインとメデューサの関係妄想