秋田作品と福本作品って

テーマ似てるよね、かなり。
秋田はファンタジーの皮で包んで抽象的に、福本は無茶な条件のギャンブルを舞台に使うことで、具体的に描くんだけど、伝えてるテーマは似てる。

原則は
「人は根本的にリスク回避やリスク軽減は出来ない。
 リスクを回避しようとすると、かえってより大きなリスクを呼び込む。
 人はどんなに努力を重ねようとリスクの前では平等であり、
 誰もがリスクと共に生きなければならない」
コレ。

どっちも敵キャラは、リスクの回避や軽減を目指し、そのせいでしくじり、主人公に咎められる。
アカギでは、合理的思考や、貯蓄や、確率計算等で、リスクそのものをなんとか回避・軽減しようとする人々が、リスクを飲み込んだ上で闘うアカギの前に敗北していく。
オーフェンでは、リスクを回避するためのアイルマンカー結界は、かえって女神というリスクを世界にに呼び込む。リスクを一極集中させて、一部の存在だけをリスクから逃し、彼らに世界を救わせるという方法は、リスク回避の不可能性により、根本的に成立しえない。

前者二つほど直接的テーマではないが、カイジでも帝愛の人々はみんな、「これだけリスク回避のための努力を毎日積み重ねてきた自分は、それをしないで生きてきた奴より安全に生きられるべきだ」と叫びながらも、それをせずに生きてきたカイジに敗北する。それも「勝利による安全を確信」してしまったことが原因で負ける者が多い。
エンハウでも、「全てを知り尽くすことで、未来を完全に予知しよう」という全知への願いが、アマワの「世界から何もかも奪えば、奪うことの出来ない『何か』だけが世界に残る。それこそが確信できる完全な存在であり、未来への約束をもたらす」という行動を呼び込み、世界を破滅へと導いてしまう。100%の未来確信によるリスク回避は、目指そうとした時点で別のリスクを呼び込んでしまうのだ。

面白いのはここから先。
両者は共に「リスクの結果被る損害は、甚大であり、回避できない、もしくはしてはならないものである」
という前提があるのだ。
この辺同じ前後型の体癖でも、6種っぽいな、と思う。
これが5種っぽい作品なら、ギャンブルに失敗して損害を受けなければならなくなったとしても、その失敗をさらに別のギャンブルに巻き込んで、新しいギャンブルに勝ってしまえば、以前の負けはチャラにできる。その賭けに負けても、更にその負債を別のギャンブルに組み込んでゆき、破綻する前にいずれ勝てばいい。この自転車操業をいかに要領よく、的確に行えるかが生きるための条件、この自転車操業に意味を求めたりしてしまうと、乙にして鬱、ということになる。生きることとはただひたすらに生きようとすることなのでした。
オーフェンと同時期にドラマガで流行したスレイヤーズの主人公、リナ・インバースはこちらのタイプだろう。マーティンゲールな生き方である。

一方、秋田作品や福本作品は、この自転車操業はナシ、できない、してはならない、という前提で世界を描こうとする。
リスクの結果受ける損害には、責任を持たなければならない前提だ。

たとえばカイジは、会長との賭けに負けて指を切り落とされる際、何とかチャラにしようとしてくれるギャラリーの声を振り切り、「俺は負けをぼかさない」と結果を受け入れる。
一応、ギャンブルで出来た借金を、ギャンブルで返すという一見自転車操業めいた行為自体はカイジもやってるんだが、あれは正確には自転車操業とはいえないだろう。自転車操業はコストを支払わされる前に、次のペダルをこいでこけないように踏ん張り続ける行為だが、カイジの場合はおもいっきりこけて、大怪我してから立ち上がっている。負けたという事実にコストを支払わされている。
指を切断され、手術でくっつけ、その手術費用のために地下で働いて、そこでのギャンブルに勝って、ようやく借金を返すためのギャンブルにこぎ着けるのだ。
アカギは、相手も自分も、巻き返しや取り返しのつかないレベルまで追い込む。こちらも倍プッシュという、マーティンゲールを相手に強制するんだが、これ相手に自転車操業させるためのものではなく、どちらかの破滅が確定してしまうようにし向けるための倍プッシュなのだ。双方のリスクをうやむやのうちに消し去るものとは真逆なのである。
秋田作品に至っては、ファンタジー世界という点を利用し、リスクによってばんばん人が死んだり、「この賭けに負けたら、世界全部が滅びる」という、他の賭けへ繋ぎようのない、巻き返しようのないリスクを提示してくる。

どの作品でも、リスクには損害を受け入れる覚悟がなければ挑めないようになっている。

だからこそ
リスク回避は出来ない→確信できるものはなにもない
だが、それでも何かを信じなければ、人は何も行動できない。
というテーマも副テーマとして浮かび上がってくる。

つまり、リスクを負う覚悟をどこからか持ってこなければ、そもそも何も行動できないまま、人は死んでしまう。
ここで、真っ先に出てくるのは「自分以外の人間」や「何らかの信念」だ。凡百の作品では、誰かのため、何かの信念のために闘う、という描き方がされる。
信念や誰かのためなら、損害を受けても構わないと思おうとするわけだ。
しかし、福本作品と秋田作品はそれを肯定しない。
なぜなら、他人の存在もまた、リスクそのものだからだ。100%信じるに足る人間など、存在しないのである。そして、100%信じるに足る信念もまた存在しない。どんな信念も、自分の期待に応えるとは限らない、信念の対象もまたリスクを孕んでおり、裏切ることもあるのだ。

そうしてそれらが最大に描き込まれ、昇華されているのが、カイジの『鉄骨渡り』のシーンと、エンジェル・ハウリングの『真っ暗闇の世界』の比喩だと思う。
どちらも作者の描き出す世界の、最高のシーンだと思うのだが、どちらも言っていることはまったく一致している。

すなわち、人は全くの孤独であり、他者の心を理解することは愚か、そもそもそこに本当に、自分とよく似た「心」と呼べる何かが存在しているのかどうかさえ、確信を持つことは出来ない。
心を理解し合うことは出来ない。理解することもされることも、本当には出来ない。
だからこそ『信じる』。通じたと信じるからこそ『通信』。信じる根拠のないものだけが、信じる価値がある。そんな世界だ。

いやまぁ、何が言いたいのかというと、そんな世界観は美しいな、ということだ。

実際現実でも、リスクを回避しようとすると、かえって大失敗するよな。
せっせと働いて金を貯めて明日の安全を手に入れようとすると、労働力が余って恐慌が起こったり、せっせと輸出して外貨を稼いで自国を富まそうと思ったら、オランダの罠に嵌ったり。
かといって、それらの逆をやっても、やっぱり別のリスクが飛んでくる。
そのくせ、レンテンマルクなんていう、効く保証なんて何もない代物が、案外ころっと経済救ったり。
ブラックスワンは誰にも予知できないから、ブラックスワンなわけで。
いかん、聞きかじりの中途半端な金融知識しかない自分がいた。

まぁあれだ、確かなものなど、誰にも手に入れることが出来ない、孤独なこの世界は、美しいということで。

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