コードギアスとはどんな物語だったのか?

えーーー、この考察は体癖をベースとしていますので、wikiである程度知っといていただかないと分かりづらいかも知れません。
で、更にギアスの話題に入る前に、漫画・アニメ史の流れから入ります。遠回りですみません。
色々前提書いておかないと、何も語れない内容でして。

まず基本的に漫画文化とは、体癖で分類するなら、元は9種体癖の感性から発展したものだと私は考えています。
手塚作品とか、松本作品とか見てると(といっても、BJと999くらいしか読んでないんですが)、あー9種っぽい発想だなぁ、と思うものが散見されるんですよね。BJの中でしばしば出てくる、命を人がいじるのはおこがましいのではないか、という発想だとか、999のじろじろ人を観察する恥知らずな星のエピソードとか、BJと999双方によく出てくる、職人芸礼賛の姿勢とか(個人的に9種の発想は、思想的には原始アニミズムの発想に近いと思います。あとは、職人魂が好きで、恥を知ることをよしとする感じ)
というかそもそも、漫画という形態自体が、一瞬を切り取った絵の中に、様々な感情や物語や無いはずの動き・音を詰め込むもので、それを描くラインはシンプルで塗りのない白黒のラインのみ、など書道や盆栽・版画・ラスコーの壁画などに通じる、9種っぽい感性(小さくシンプルな物に宇宙の全てを詰め込もうとする)の凝縮されたまさに賜物という存在だと思うからです。

で、その後80年代の捻れ体癖っぽい時代を反映し、少年漫画は9種の伝統を引き継ぎつつ、捻れの世界を描こうとするようになります。(少女漫画は既存の3種少女文化に吸収されて、別ルートを辿ったので、ここでは考察しません)
アトムのロボット物という伝統を引き継ぎつつ、ガンダムを作ったりするようになるわけですね。
全体的に言うなら、バトルが重要視され、政治ネタも重要視される感性の時代です。
バトルが捻れの賜物、というのは分かりやすいというか、捻れ体癖の基本なのでここで説明しなくてもいいでしょう。
そしてこれは個人的な見解ですが、政治もまた、人に捻れの感性を必要とさせる、捻れ体癖のジャンルだと考えています。政治とスポーツの話は、初対面の人としたらいけない、喧嘩になるから、というアレが分かりやすい例かと。政治の話をしだすと、人間ってかなりこう、勝とうとするか負けまいとするか、いずれにせよどこか喧嘩腰になるでしょう? 体が実際に捻れてくるのかは、ちょっとよく分かりませんけど。
で、その頃の漫画・アニメ文化は、不良物だとか、スポーツだとか、世紀末救世主とかみたいな、闘いが重視される、あるいは銀英伝やガンダムみたいな、政治とそれに伴う戦争が重要視されるものが流行るわけですね。

しかしこれらも90年代の、日本全体が前後型に包まれた時代には、捻れ時代の伝統を受け継ぎつつ、前後型の雰囲気が強い作品が生まれるようになってゆきます。
いわゆる、ガンダムからエヴァへ、ですね。
余談ですが、この前後型っぽい流れは、オタク界では村上春樹からの流れを汲むところが大きいのか、いわゆるライトノベル全盛期。スレイヤーズやセイバーマリオネットなど、若干漫画よりラノベの方がリードしていた、数少ない時代だったかもしれません。
捻れの伝統として、バトルシーンをサービス的に配置しつつも、重要なのは捻れ的な努力・根性・怒り・勝利ではなく、前後型的な駆け引きと機転と行動力です。
契約的に結ばれる絆・突然立ち止まれず走り続けなければならない状況に置かれる主人公、支配者など存在しない世界で誰もが盲目的に走り続ける感覚、などが捻れの時代との大きな違いになってきます。

で現在は、また色々迷走していて、(3種っぽいものを組み込んでみたり、捻れに戻ろうとしてみたり)している感じで、まだ明確な変化は来ていないかな? という感じ。
大体そんな風に、オタク界の歴史は流れてきたと考えています。

さて、そんな中でコードギアスはというと、これがなかなか面白い特徴を持っています。
ずばり「ガワは徹底的に前後型(90年代)のモチーフを使っているのに、蓋を開けると中身は捻れ型(80年代)」の法則。
前後型っぽいガワをざくっと挙げると

・CLAMP絵柄(あごが細く、背が高く、肩幅が極端に大きいか小さいかの両極端)
・孤立した、いわば孤高の存在である主人公。
・ある日主人公が、唐突に事件に巻き込まれ、契約によって得た力で戦う
・サブ主人公は、戦うことを否定しながらも、戦場に居続ける

ところが実際に蓋を開けてみると
・主人公が戦う理由は、妹を護るためと、いわゆる父殺しの道を目指すため。その過程で兄弟達と戦っていく、という、徹底して「家族」というユニットを重視した物語構造。
・主人公は孤高なのではなく、皇族という権威ある生まれであるために、やや特殊な立ち位置にいるだけ。
・サブ主人公も、父殺しのテーマを背負っている。
・主人公たちは個人主義的な価値観ではなく、政治思想ありきな価値観に基づいて戦う。

特に「家族重視」と「政治思想重視」「権威が絡む物語」は、前後型文化である90年代オタク文化が、絶対に選ばない、むしろ捻れ型80年代オタク文化から脱却するために、慎重に否定してきた項目だと思います。

家族というユニットを描くことは、90年代オタク文化でもあるといえばあるのですが、いわゆる捻れ的な血の繋がりは特別、みたいなものではありません。
むしろ血のつながりによる家族制を否定し、血が繋がらないからこそ、それぞれが独立した対等な個人として出会い、共に生きることができる、それが家族だ、という発想で描かれることが多い。
端的に言えば、主人公の血縁キャラはいても出てこないか、そもそも主人公が孤児であるケースが非常に多いわけです。
人はみな孤独だが、だからこそ素晴らしい。孤独な個人同士が出会い、それぞれの個を侵害せず自立したまま、共に同じ時間を共有して過ごす、これが90年代オタク文化の人間関係の姿なわけです。

ところがコードギアスの家族関係は、フロイトの父権社会のモチーフのように「父殺し」が重要な位置を占める世界観。これはとても捻れ的だと思うんですよね。というか父権社会自体が、捻れの社会だと思うんですよ。(ちなみに開閉型は父権社会より前の原始母権社会。前後型は言わずと知れた資本主義による個人主義社会の世界観と、相性ばっちこいかな、と)

そもそも契約という概念は、本来資本主義ベースの個人主義的な価値観と相性がいいものだと思うんですよね(旧約聖書の神との契約みたいな例は除くとして)。
見も知らぬ者同士が、相手に何かを与える代わりに、何かを受け取るという、実に商業的なやりとりをするために契約は存在するわけです。
契約とそれを支える資本主義の素晴らしいところは、相手を選ばないと言う点。血縁や因縁や国籍や性別などの属性には一切関係なく、むしろ権威を生み出しかねないそれらを無価値化し、人間を純粋な個に引きずり下ろす力がある点です。だからこそ、90年代オタク文化によく使われるモチーフだったわけです。

ところがコードギアスの場合、蓋を開けてみると、契約相手のC.C.は主人公の両親と面識があったために、わざわざ主人公を捜し出してきて、力を与えたわけで、これはもう契約でも何でもありません。ただの情と血縁による繋がりです。そもそも契約した時点ではルルーシュははほとんど何も代償を支払っていません。事実上C.C.が一方的に力を与えただけ。ギアスによる孤独は、得た力の副作用 = 二面性のうちの片面であって、C.C.に利益があるわけではないため、契約の代償ではありませんし、不死のコードについては、確かに契約の代償と呼ぶに相応しい者なのですが、契約時にその存在を知らされるわけではない上、契約後もかなり長期間、ルルーシュはその存在を知らないまま過ごします。ストーリー上長い間、C.C.から一方的にルルーシュへ力を与えられているという、契約とは呼びがたい期間が続くわけです。

また、サブ主人公であるスザクには、よりによって「戦場にいるのに、殺すのを厭うのは矛盾じゃないか?」という問いが投げかけられます。
こんな問い、本当に前後型的な世界観なら、問うこと自体がナンセンスです。
なぜなら「自分という個を護るために、個を侵害するものと戦い、その結果他者の個を侵害してしまうというこの世界に、わけもわからないまま放り込まれることが、生きるということ」だからです。
他者を殺したくないと思いながら、自分を護るために、他者が自己に侵略してくる恐怖に抗い続けるということを、端的に象徴するものとして、戦場が描かれるのです。
もし、コードギアスが本当に中身まで前後型的な世界観なら、スザクは多分この問いにこう答えたはずなのです。
「そういうものだから」「他に稼ぎを知らないから」
あるいは、スザクよりもっと内向的なキャラなら
「他にいられる場所がないから」あるいは「他に僕がいてもいい場所がないから」
となったかもしれません。エヴァですね要は。
だってこれが前後型の世界そのものの姿なんですから、逃げられる場所なんてないわけです。

ところが、実際はスザクが戦場に居続ける理由は、父殺しの罪悪感による自殺願望、という、きわめて父権社会的な価値観によるものでした。
これまた蓋を開けてびっくりなわけです。

もっともスザクはルルーシュと違い、かなり血縁からは切り離された存在(孤児)であり、対等な個と個の出会いの典型的なテーマであるボーイミーツガールを果たすなど、わりと前後型的なモチーフを引きずってはいるのですが、それらが差別や裏切りといった政治的な(つまりは捻れ的な)モチーフとどうも食い合わせが悪かったというか、喧嘩してしまったというかな印象があり、これがスザクの、ともすると支離滅裂に見えなくもない行動描写に繋がったのかな、と思うのです。

と、まぁそんなこんなで、見た目前後型、中身捻れのコードギアスが描いた世界というのは何だったのか。
個人的には、「『意地』という(捻れ的な)感情は、人を不幸に導くこともある感情だが、それでも人間には必要な感情ではないだろうか」というメッセージだったのかなぁと。

ルルーシュもスザクも、かなりのいじっぱりです。行動の理念の根底には、意地が強い。
ルルーシュは、単純にナナリーを護るためだけなら世界を取らずとも、上手く社会権力の庇護に潜り込む方法を考えれば良かったはずです。自分が支配者になるなど、面倒事を一手に引き受けるも同然の行為、生活の安定はもたらしませんし(独裁を維持するのにどれだけの手間暇がかかることか)、当然ナナリーの生活の安全も脅かされる可能性が高い。物語開始時点の、一方的に脅かされる環境よりはマシと言うだけで、決して最善手ではなかったはずです。
にも関わらず、父を殺して成り代わる道をルルーシュが選んだのは、多分ナナリーを護りたいのと同時に、被支配者である立場が、嫌で仕方なかったから、ってのはあると思うんですよね。要は意地です。
で、実際ルルーシュは覇道を突き進んだせいで、他人をバンバン死なせて不幸にするわ、自分も孤独に陥るわ、そもそもナナリーのためにならないという事実をクライマックスでナナリー本人に指摘されるわで、ホンマろくな目には合いません。意地張ったせいで!!

スザクもかなり正義のあり方というものにこだわり、面倒な道を突き進みます。
ユフィを殺したのが許せない、という理由でルルーシュと長期にわたって対立することになるのですが、単純に愛する者を殺された恨みで報復したいのではなく、愛するユフィを、正義とは思えない動機で殺したのが許せない、という感じで行動しています。
普通は「愛する者を返せ、それが出来ないならお前も俺と同じくらい酷い目に合わせてやる!!」と、駄々をこねる感じでやるのが復讐者の動機なのですが、スザクはそうじゃない。
きちんと義さえ示せば、納得は出来なくても理解はするのに、ルルーシュはユフィを殺したことへの義すら示さない!! という点に怒っているわけです。まぁうっかりギアスなので、義がないのは当たり前なのですが。
これも、かなり意地っぱりな怒り方だと思います。ユフィへの愛情そのものから怒るのではなく、愛するユフィが示した正義を、彼女を潰した奴に知らしめたいという意地で怒っているふしがある。
このせいで、開き直ってルルーシュをばっさり斬り捨てることも出来ず、さりとて許すことも出来ず、屈折した行動を続け、人々からは裏切りの騎士と呼ばれるようになるわけです。

二人は決して、意地を張り続けたせいで良い目はみなかったし、周囲の人々を不幸にさえした。
でも、です。
それでも、『意地』がないものがもたらす不幸は、『意地』がもたらす不幸よりも大きく、二人は周囲の人々を『意地』がないものがもたらす不幸から護りきった。
コードギアスはそういう話なんだと思います。
他我の区別のないセカイを目指したシャルルも、感情のないシュナイゼルも、人々に『意地』を放棄することを求めます。そうすればみんな幸せになるはずだ、と。
確かに彼らと対峙するルルーシュ・スザクは、意地のせいでさんざん自分も人も不幸にしているので、一利あります。
それでもルルーシュ達は、そんな生き方はもはや人間の生き方じゃない、と否定するわけです。
「『意地』は確かに人をろくな目にあわせないけれど、それでも人が人であるためには必要な感情なんじゃないか?」
というのが、コードギアスのテーマなんじゃないかな、と。
ここに日本のオタク界が辿ってきた遍歴の、一つの結果があるのではないかな、と。

意地というのは、捻れ的な感性だと思います。
80年代の捻れ世界観全盛期の頃ならば、意地という感情は、全面肯定的に描かれていたはずです。ルルーシュもスザクも意地のせいで得することはあっても、損するようには描かれなかったはず。
ところが、意地というものがろくでもない結果をもたらすことは、90年代の前後型世界観でも、きっちり描き込まれています。資本主義社会が成熟して、もはや意地が人に災厄しかもたらさないことが、誰の目から見ても明らかに分かっているからです。
ぶっちゃけ意地なんて張っても、ろくなことない。Win-Winの両得な関係に辿り着くためには、意地など張っていてはいけないんです。相手を打ち倒し正義を押しつけるWin-Loseの関係では、結局の所勝った者さえいつかは倒される定めにあり、ルールそのものを変えなければ、誰も得しない上、勝ち負けのない世界が現実的に可能で、win-winを選ばない理由はもうない。なくなってしまった。その事実は、否定できなくなりました。

ただ、前後型全盛期も終わり、今後の方向性を模索する中の一つとして、意地の見直し、みたいな方向性を進んだのが、このコードギアスなのではないかな、と。
もはや意地は全肯定できる存在ではない。でも、一部肯定くらいしてもいいじゃないか。
なんというか、それくらいの絶妙なさじ加減の元に成立したのが、この作品だったのではないかと思います。

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